日本伝統刺青について

​日本では古くは縄文時代よりまたはそれ以前より入れ墨文化があったと言われます。現在のいわゆる日本伝統刺青が花開いたのは江戸時代以降、歌川国芳の浮世絵「水滸伝百八人之一個水滸伝百八人之一個」の影響で始まったという説があります。当時、民衆は大名の圧政に辟易し、そこへ国芳の水滸伝集が発売され、百八人の刺青を纏った(全員ではない)豪傑が梁山泊に集い悪い役人を成敗するといった内容が当時の民衆は痛快に感じ大流行し、自分もその登場人物のようにと自身の肌に刺青を施したのが始まりとの一説があります。町火消しを中心に主に肉体労働者が鍛え上げられた体を装飾する目的で日本伝統刺青が大流行しました。当時は刺青に偏見もなくむしろ大作を纏った人物はその勇気と精神力の強さに尊敬されました。

火消しは火事になると裏地に派手な刺繍が入った刺子半纏に水を含ませ火事場に向かい、消火し終えると刺子半纏を裏返して派手な刺繍を見せびらかせながら火事場を後にし、当時は写真もテレビも勿論ない時代なので、人々はその刺繍を見て何々の刺繍の誰々が活躍したなどと口づてで語られ火消しとっての勲章になりました。その後、刺青が流行し刺子半纏への刺繍から自分の肌に直接彫り込むようになり、消火後に半纏を脱ぎ自身の刺青を見せびらかすようになったそうです。

当時から刺青は常に見せるものではなく、普段は隠しいざという時に見せる、「隠す美学」がありました。例えば胸割りは着物の襟から刺青が見えないようにと工夫された形です。時代が変わり着物を日常的に着なくなるにつれ、胸割りの隙間も狭くなりました。

その後、明治時代になり、西欧に遅れをとっていた日本は、野蛮な風習と言ってお歯黒や刺青などを禁止し、当時の彫師は地下に潜らざるを得なくなりました。しかし、逆境に負けず研鑽を続け次世代へと受け継がれ、刺青文化が消え去ることはありませんでした。それどころかロシアの皇帝やイギリスの王室などは日本の刺青の様式美に惚れ込み、来日する度に刺青を入れて帰ったそうで、写真が今でも残っています。

第二次大戦終結後、刺青はある意味国に認められ、グレーのような立場になります。その後、ヤクザ映画が流行し多くの稼業の方々が刺青を入れるようになり、メディアも定期的に刺青をマイナスのイメージで偏向報道し(現在でも見られる光景ですが)次第に刺青=反社会的或いは悪という始まりとはかけ離れたレッテルを貼られました(陰にあるからこその刺青の良さもあるのでいいか悪いか一概に言えませんが)。

現在では世界中で日本の刺青が有名になり、多くの海外の彫師が影響を受け日本刺青風の刺青を彫っています。

一門ごとに多少絵柄の意味など違いはありますし、伝統とはその世代が受け継いだものを試行錯誤し成長させ次世代に託すものだと思いますが、きちんと勉強せず構図を似せて彫るだけの本来の日本刺青とはかけ離れたいわゆるジャパニーズスタイルタトゥーの彫師が多数います。その中でも素晴らしい作品は勿論沢山ありますが、多くの人からそれが本来の日本刺青と勘違いされています。現在、徒弟制度もほぼなくなりつつある中で、その一門ごとが培った知識や技術が失われつつありますので、一刺青ファンとしては悲しく思います。

  • Facebookの - ホワイト丸
  • Instagramの - ホワイト丸
  • ツイッター - ホワイト丸
  • LinkedInの - ホワイト丸
  • 5
  • images3
  • Tumblrの - ホワイト丸
  • U
  • Vimeoの - ホワイト丸
  • YouTubeの - ホワイト丸

TAT

Civil society organization 

For traditional tattooing 

(Non-profit-organisation)

Kurosumi_.jpg

Kuro Sumi Tattoo Ink Pro Team

Copyright © 2017 Kensho The Second.  All Right Reserved.